みなさんは集中するとき、どこでその作業を行いますか?
僕は普段、勉強したり本を読んだりするときは家を使ってました。
飲み物もあるし、くつろげるし、何よりお金がかからない。
でも一方で、
「集中するなら外でやるべき!」
「環境を変えろ!」
という意見もたくさんあります。
一体どちらが正しいのでしょうか。
そんな疑問に兼好法師は「徒然草」の第五十八段で答えています。
出家だって、やる気だけではどうにもならない。
兼好法師は第5五十八段の前半部分でこのように述べてます。
道心あらば、住む所にしもよらじ。家にあり、人に交はるとも、後世を願はんに難かるべきかは」と言ふは、さらに、後世知らぬ人なり。げには、この世をはかなみ、必ず、生死を出でんと思はんに、何の興ありてか、朝夕君に仕へ、家を顧みる営みのいさましからん。心は縁にひかれて移るものなれば、閑かならでは、道は行じ難し。
簡単に現代語にすると、
『「仏の道を目指す心構えがあるなら、修行する場所なんて関係ない」という人はよくいるけど、人間の心は環境によって変わるもの。
静かな場所じゃないと修行はできないよ。』
といった感じです。
兼好法師はやる気だけで出家しようとする人をバッサリ切り捨てます。
まわりにいませんか? 根性論で人を「やる気が足りない」や「たるんでいる」と批判する人。
兼好法師はそんな言葉にくじけそうな人の味方です。
兼好法師はその優れた観察眼で、世の人々の生活を一歩引いた目線で見てきました。
その観察から見出されたものは、「人間の心は環境に流される弱いものだ」ということなんです。
さらに兼好法師は後半でこう続けます。
その器、昔の人に及ばず、山林に入りても、餓を助け、嵐を防くよすがなくてはあられぬわざなれば、おのづから、世を貪るに似たる事も、たよりにふれば、などかなからん。さればとて、「背けるかひなし。さばかりならば、なじかは捨てし」など言はんは、無下の事なり。さすがに、一度、道に入りて世を厭はん人、たとひ望ありとも、勢ある人の貪欲多きに似るべからず。紙の衾、麻の衣、一鉢のまうけ、藜の羹、いくばくか人の費えをなさん。求むる所は得やすく、その心はやく足りぬべし。かたちに恥づる所もあれば、さはいへど、悪には疎く、善には近づく事のみぞ多き。
人と生れたらんしるしには、いかにもして世を遁れんことこそ、あらまほしけれ。偏へに貪る事をつとめて、菩提に趣かざらんは、万の畜類に変る所あるまじくや。
長いですが、簡単に訳すと、
『たとえ出家したとしてもまったく欲がないわけではない。
それを、「そんなんじゃ、出家した意味あるの?」という人がいるけど、それはひどい話だ。
欲があるとはいっても俗世と比べればかわいいもの。
だから、出家して修行する意味はあるのだ。』
兼好法師は欲望を完全に無くすことができないことを知っています。
そこで彼は人間の弱さを認めた上で、「環境を変える意味はある」と説いているのです。
集中したいなら場所を変えよう。
僕は兼好法師を習ってカフェ行くようになりました。
カフェでは家ほど誘惑がありません。
あったとしてもスマホ、それにカフェでの飲食くらいです。
家での漫画やゲーム、昼寝に比べたら確かにかわいいものです。
誘惑がない分作業に集中できますので、面白いように捗ります。
今日も本を1冊読んできました。
「カフェではお金がかかる」という意見があると思いますが
その分集中して作業を行えるので、時間を節約することができます。
ほら、家だとだらだらしてしまい、簡単なことでもけっこう時間がかかりませんか?
お金と同様、時間も貴重な資源です。
費やすお金のことばかりでなく、時間がどれくらいかかるかといった視点も大切です。
集中したいなら、カフェに行きましょう!
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